さいたま市エリアガイド

さいたま市エリアガイド

さいたま市は、平成13年(2001年)に旧浦和・大宮・与野の3市合併により誕生し、平成15年に政令指定都市へ移行、さらに平成17年(2005年)に旧岩槻市との合併を経て、関東圏域を牽引する中枢都市としてさらなる発展を目指している都市です。文教地区であり行政の中心地であった浦和、商業地として栄え埼玉の交通の要でもある大宮、再開発を経て文化・芸術の街となった与野、城下町と人形の町として知られる岩槻。各エリアが、どのような歴史・特色を持つのか、どんな観光スポットがあるのが、さらに今後どのような展望を持っているのかご紹介します。

大宮エリア

武蔵一宮氷川神社
白井助七像
昭和〜大正の大宮操車場

写真:武蔵一宮氷川神社、白井助七像、昭和〜大正時代の大宮操車場

●名前の由来は氷川神社にあり

大宮という地名は、この地に武蔵一宮氷川神社があったことに由来するといわれています。武蔵一宮というのは関東にある氷川神社280数社の総本社であることを示しています。2000年以上の歴史を持つといわれる氷川神社は「大いなる宮居」としてあがめられており、大宮はその門前町として発生しました。

●大宮駅開設

現在は埼玉県の交通の要となっている大宮ですが、明治16年(1883年)に高崎線の上野~熊谷間が開通した際には大宮には駅が設置されませんでした。大宮の衰退を危惧した白井助七を中心とした町の有志は、大宮駅開設運動を展開。明治18年(1885年)の開業へといたりました。

●交通網の発達

大宮駅が開業すると、鉄道の製造修理のための大宮工場(現在の大宮総合車両センター)をはじめ多くの鉄道関連施設ができ、大宮は日本の重要幹線が分岐する重要拠点となりました。鉄道による交通面で便利だった大宮へ製糸業が進出すると、商工業の飛躍的な発展にもつながるように。

昭和30年代大宮駅東口
昭和34年大宮駅西口
東北新幹線開業

写真:昭和30年代大宮駅東口、昭和34年大宮駅西口、東北新幹線開業

●大宮市誕生

交通網の発達が大宮近郊の都市化を促進したことで、大宮町と日進・三橋・宮原・大砂土村の人口が急増。1町4村の合併による市制施行の気運が高まり、昭和15年(1940年)11月3日、川越・熊谷・川口・浦和市に次いで、県下5番目の市として大宮市が誕生しました。

●鉄道の要衝が鉄道のまちへ

昭和57年(1982年)、東北・上越地方をはじめとする東日本の期待を受けて、東北・上越両新幹線が大宮駅を暫定始発駅として開通しました。現在、大宮駅は新幹線6路線、JRと私鉄の7路線が乗り入れる鉄道の要衝で、都心や東日本へのアクセスは抜群です。
鉄道の要衝であり、大宮総合車両センターを擁する大宮は、「鉄道のまち」と呼ばれるようになりました。

鉄道博物館
大宮駅周辺空撮
1989年の第一回世界盆栽大会
大宮盆栽美術館

写真:鉄道博物館、大宮駅周辺空撮、1989年の世界盆栽大会、大宮盆栽美術館

●鉄道博物館

平成19年(2007年)には「鉄道博物館」が開館。「鉄道」「歴史」「教育」をコンセプトに、鉄道について深く学べる施設です。屋内外合わせて42両の車両が展示されているほか、「ミニ運転列車」や「シミュレータ」で鉄道車両の疑似運転体験ができたり、日本最大級の鉄道ジオラマも必見。鉄道のまちを代表するスポットとして、連日多くの来館者でにぎわっています。

●県内随一の商業地

宿場町のあった大宮駅東口は、デパート・百貨店などの大規模商業施設に加えて、中小の商店・飲食店が立ち並ぶ商業地として発展しました。その後、新幹線の開通とあわせて大宮駅西口周辺の再開発事業が進展。いくつもの大型店やJACK大宮、ソニックシティなどの商業ビルが開業し、現在では県内随一の商業地であり、オフィスエリアとなっています。
また、駅周辺にはファッションビルやアミューズメント施設など若者が訪れるスポットも多く、活気溢れる様子も見られます。

●盆栽の町

大宮は盆栽の町としても知られています。関東大震災を契機として東京から盆栽業者が多数移住したことで、大正14年(1925年)に盆栽村が開村。大宮の土壌と水が、盆栽の生育に適していたことも理由のひとつだそう。現在も盆栽村には盆栽園が点在し、それぞれの特性を活かした盆栽作りを続けています。平成元年(1989年)には第1回の世界盆栽大会が大宮で開催されるなど、盆栽の文化が地域に深く根付いています。

●大宮盆栽美術館

平成22年(2010年)には、大宮盆栽村には世界で初めて公立の盆栽専門美術館「大宮盆栽美術館」が開館。庭園には常時60点もの盆栽が展示されており、さまざまな樹種やスタイルを鑑賞することができます。国内のみならず、海外の盆栽愛好家が多く訪れている世界的な注目スポットです。


このように、大宮は鉄道のまち、商業のまちとして発展してきました。現在は、若者たちでにぎわいそれだけでなく、2000年以上の歴史があり関東一円の信仰を集める武蔵一宮氷川神社、明治18(1885年)年に開園し全国でも有数の桜の名所である大宮公園など、自然に囲まれ歴史を感じることのできるエリアでもあります。

現在は、大宮駅を中心とした交通基盤の整備や、駅周辺の街区の街づくり、交通機関の乗り換えなどの駅機能の高度化の3点を三位一体で推進する大宮駅グランドセントラルステーション化構想が進められています。

与野・新都心エリア

大正時代の与野駅
昭和30年代の与野本町通り
与野市制十周年記念パレード
彩の国さいたま芸術劇場オープン

写真:大正時代の与野駅、昭和30年代の与野本町通り、与野市制十周年記念パレード、彩の国さいたま芸術劇場オープン

●名前の由来

「よの」という地名の由来は定かではありませんが、いくつかの説があります。「与」には「○と○の間」という意味があり、与野とは「台地と台地の間にある原野」と解釈される地形・立地条件が揃っているという説。また、労働力を提供する代わりに金品を出す「米納」「余納」から転じて「よの」となった説などです。

●与野駅開設と鉄道網

明治16年(1883年)に高崎線が開通したあと、大正元年(1912年)には地元民の土地提供により、浦和〜大宮間の大原信号所を拡張して与野駅が開設されました。さらに昭和60年(1985年)にはJR埼京線が開通し、北与野、与野本町、南与野の3駅が開設されました。

●交通網の整備

昭和9年(1934年)には現在の国道17号線が開通。昭和10年代(1935年~)に自動車部品工場や自動車販売の会社が営業を始め、以降与野市の代表的な産業になりました。現在も国道17号沿いには車のディーラーが建ち並んでいます。さらに、昭和45年(1970年)には、新大宮バイパスが縦断しました。

●蔵造りの家が残る市場の町

与野の本町通りでは室町時代から市が開かれ、市場の町としてにぎわってきました。町外からの店が数多く並び、商品を買い求める客も多かったそう。通りと家の間には広いスペースがあり、商品の荷捌き場ともなっていたことが分かる蔵造りの家が現在も残っており、その歴史を感じることができます。

●与野市誕生

与野市が誕生したのは昭和33年(1958年)です。まず、明治22年(1889年)に、与野、小村田、上落合、下落合、中里、大戸、鈴谷、上峰、八王子、円阿弥の1町9村を合併して与野町に。そして昭和33年(1958年)、県内で20番目の市として「与野市」が誕生しました。

●文化・芸術の街への変貌

昭和60年(1985年)、埼京線開通による北与野駅、与野本町駅、南与野駅の新設にともない、北与野駅周辺の開発事業が推進されました。駅前広場の整備、ビル群の建設に加え、与野本町駅の西側には平成6年(1994年)「彩の国さいたま芸術劇場」が開館。さまざまなコンサートや舞台が上演されるようになり、与野市は文化・芸術の町として変貌を遂げました。

さいたま新都心駅
さいたまスーパーアリーナ
第8回世界盆栽大会

写真:さいたま新都心駅、さいたまスーパーアリーナ、第8回世界盆栽大会

●さいたま新都心の誕生

3市合併の契機となった「さいたま新都心」建設は、与野市域が大半を占めています。さいたま新都心は、平成12年5月(2000年)に街びらき記念式典が開かれ、同年9月に「さいたまスーパーアリーナ」が全面オープン。大型商業施設やオフィスビル、国の機関、バスターミナル、大型の集合住宅など、現在も開発が続いています。

スーパーアリーナでは、音楽・スポーツ・文化などのさまざまなイベントを開催。平成30年(2018年)にはメイン会場として第8回世界盆栽大会が開催されるなど、文化・芸術の発信地として、また、さいたま市への誘客に寄与しています。

与野公園
オブジェ

写真:与野公園、オブジェ

●与野エリアの注目スポット

現在、与野市地域であったさいたま市中央区はバラのまちとして知られています。与野市民の心が安らぐ場所として、与野公園のバラ園は昭和52年(1977年)に開設され、現在でも開花時期にはバラの観賞のために多くの人が訪れています。

また、芸術性の高いエリアで、さいたま新都心周辺にはオブジェやパブリックアートが点在し、歩きながらの芸術鑑賞を楽しんだりも。

最近では、中央区内の施設がドラマ等の撮影地として多く利用されています。また、大ヒット映画「翔んで埼玉」の中のセリフ「与野はすっこんでろ!」が話題となり、メディアでも注目のエリアとなっています。

浦和エリア

二・七の市市場通り
浦和のうなぎ
昭和41年の埼玉県庁

写真:二・七の市市場通り、浦和のうなぎ、昭和41年の埼玉県庁

●中山道の宿場町「浦和宿」

江戸時代には、五街道の1つである中山道の宿場町として発展しました。現在の常盤に本陣・脇本陣が置かれ、また毎月二と七のつく日に市が開かれる「二・七の市」が盛んになるなど、町場としての体裁が整っていきました。現在でも浦和宿にまつわる石碑や石像が点在しており、浦和宿の歴史を垣間見ることができます。

●浦和のうなぎ

江戸時代、浦和近郊には沼地が多く、魚釣りなどを楽しむ行楽客でにぎわいました。その行楽で訪れた人に沼地でとれたうなぎを出したのが始まりで、味の良いことが大変評判となり、「浦和のうなぎ」が定着したそう。現在でも伝統の味を受け継ぐうなぎ専門店が多くあり、浦和の名物として親しまれています。

浦和のうなぎをPRするために、故やなせたかし氏によって生み出されたマスコット『浦和うなこちゃん』。浦和駅西口前に『浦和うなこちゃん』の石像があり、さいたま観光大使として活躍しています。

●行政の街・浦和

明治2年(1869年)浦和県となり県庁が置かれ、さらに明治4年(1871年)の廃藩置県後、浦和県は岩槻県などと合併し埼玉県となりました。県庁は浦和の施設がそのまま用いられ、さらに諸施設が設置されるように。県都としての機能が強化され、行政の街・浦和として発展していきました。現在も、旧浦和市地域である浦和区には市役所や県庁などの主要官公庁が集中し、市はもとより県内行政の中心地になっています。

鳳翔閣の一部を復元した浦和博物館
昭和43年の浦和駅上空付近
昭和58年の浦和駅西口

写真:鳳翔閣の一部を復元した浦和博物館、昭和43年の浦和駅上空付近、昭和58年の浦和駅西口

●文教都市・浦和

行政機関が集まったことにともない、明治期には師範学校や医学校などが次々設立され、埼玉県の政治・教育・文化の中心を担うエリアになりました。明治11年(1878年)に建てられた師範学校の新校舎は、開校前に明治天皇の宿泊所となったことで鳳翔閣と命名。浦和が文教都市として印象づけられることになりました。現在も、美術館や図書館、科学館、スポーツ施設、高等学校など教育・文化の施設が多く点在しています。

●交通網の発達と都市基盤の整備

日本の高度経済成長とともに、東京のベッドタウンとしての機能と、県都としての基盤整備が着実に進められていくことになりました。

昭和40年(1965年~)代に入ると、新大宮バイパスやJR武蔵野線などが開通し、市域の交通網や都市施設の整備が進展していきました。昭和56年(1981年)には浦和駅西口の改造が完了し、新しい浦和の玄関が完成。昭和60年(1985年)にはJR埼京線が開通し、武蔵浦和駅、中浦和駅の2駅が開設され、さらに、平成13年(2001年)に地下鉄南北線から延伸した埼玉高速鉄道線が開通し、浦和美園駅が開設されました。

埼玉サッカー発祥の地
サクラソウ
別所沼公園

写真:埼玉サッカー発祥の地、サクラソウ、別所沼公園

●埼玉サッカー発祥の地

浦和は「サッカーのまち」としても知られています。埼玉県師範学校が埼玉サッカーの発祥であるといわれており、昭和20年~50年代にかけては浦和の各高校が次々と全国大会で優勝を遂げ全国区になりました。
また、サッカーJリーグ浦和レッドダイヤモンズの本拠地があり、サポーター熱が高いことでも有名。これまで浦和レッズはアジア王者に3度輝くなど、実績を上げています。

●自然豊かな公園が点在

旧浦和市地域だった桜区には、大正9年(1920年)に国指定の天然記念物に、昭和27年(1952年)には特別天然記念物に指定された田島ケ原のサクラソウがあります。国指定のサクラソウの自生地としては国内唯一の指定地。桜草公園で観賞でき、春にはさくら草まつりが開催されています。

南区にある別所沼公園は沼の周囲にはメタセコイアなどが生い茂り、新緑と紅葉どちらも楽しめます。散歩・ジョギングコースのほか、釣りや子どもの遊具もあり、市民の憩いの場となっています。


このように、浦和エリアでは、行政機関や教育・文化施設、商業施設が集まり発展し続けています。現在は、より快適な都市空間の実現のために、浦和駅西口周辺の再開発事業を展開中。施設の建築や道路など公共施設の整備が進められています。

岩槻エリア

大構(おおがまえ)の上に祀られている愛宕神社
岩槻城址公園
昭和40年代 東武野田線丹過の踏切

写真:大構(おおがまえ)の上に祀られている愛宕神社、岩槻城址公園、昭和40年代 東武野田線丹過の踏切

●名前の由来

岩槻の地名は、室町時代初期の古文書の中に登場していますが、その表記は「岩付」となっています。現在の「岩槻」の字が使われ始めたのは江戸中期から。槻はケヤキの古名で、岩槻城の土塁や町の随所にケヤキが植えられていたことからこの字が当てはめられたといわれています。

●岩槻城

岩槻城が造られたのは室町時代末頃だといわれています。現在の岩槻城址公園があるのは岩槻城の曲輪(くるわ)があったところで、城の南を守る出丸(でまる)として造られた場所です。城というと、一般的には石垣や天守閣がイメージされますが、岩槻城の場合、石垣は造られず、土を掘って堀を造り、土を盛り上げて土塁を造るという、関東では一般的な城郭でした。この堀と土塁を大構(おおがまえ)といいます。

●岩槻城址公園

岩槻城址公園は、約600本の桜が咲く県内有数の桜の名所。豊かな自然林の中、園内の菖蒲池には朱塗りの八ツ橋がかけられていて、園内を美しく彩っています。岩槻城の黒門や空堀跡、東武鉄道から寄贈されたロマンスカーきぬ号が見られます。

●城下町・岩槻

江戸時代には日光東照宮が造営。将軍の日光社参のために日光御成道が整備されると、宿場町として、また城下町として、武蔵国東部の中心地として大いに栄えました。現在は、市宿通りや久保宿通りなど宿場町として栄えた通りには、城下町の歴史説明・案内図が立っていたり古い商家があったり、城下町の風情を感じることができます。

●岩槻駅開設

鉄道は、大正13年(1924年)に武州鉄道岩槻・蓮田間が開通しましたが、昭和13年(1938年)に廃線になりました。一方、昭和4年(1929年)には総武鉄道の大宮・粕壁(春日部)間が開通。岩槻町駅として開設され、昭和14年(1939年)から岩槻駅になりました。その後、東武鉄道と合併して東武野田線(現愛称:東武アーバンパークライン)として整備され、東京都心とは大宮駅、春日部駅経由で結ばれています。

岩槻人形
岩槻人形博物館
旧岩槻市(区)役所
芳林寺の太田道灌像

写真:岩槻人形、岩槻人形博物館、旧岩槻市(区)役所、芳林寺の太田道灌像

●人形の町・岩槻

岩槻は人形の町として有名ですが、もともとは桐の産地で桐細工が盛んでした。工匠たちはこの桐細工の制作中に発生した粉を糊と練り合わせ人形を制作。ご粉を塗ったところ顔色の発色が良く、また岩槻台地の鉄分を含んだ水がご粉に適していることから、人形産業が発展したといわれています。こうして作られた桐塑人形(とうそにんぎょう)は、精巧でこわれにくく、また量産もできる事から急速に発達し、岩槻の代表産業になりました。

●岩槻人形博物館

今でも岩槻駅周辺には人形店や工房が点在し、令和2年(2020年)には岩槻人形博物館が旧岩槻区役所跡地に完成しました。岩槻の人形作りについて学び、日本画家・西澤笛畝氏のコレクションを柱として、さまざまな日本の人形を鑑賞できます。また、人形にちなんだイベントも開催され、人形のまち岩槻を感じることができます。

●歴史・文化を訪ねてまち歩き

岩槻はさいたま市の中で東部に位置しています。中央部と北東部にある岩槻台地と慈恩寺台地のほか、南北に流れる元荒川、綾瀬川沿いに広がる、比較的平坦地で、自然環境に恵まれた地域です。
城下町として栄えた岩槻の文化財や史跡などのスポットを巡ることができ、歴史の学びやまち歩きには最適なエリアです。

観光MAP
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