清泰寺
縁起
平安時代初期の高僧・慈覚大師円仁(延暦寺三世座主)によって開かれたと伝えられています。本尊の十一面観音立像(市指定有形文化財)は、江戸時代初期の作で秘仏とされています。 当寺に葬られた見性院は、幼少時の会津藩松平家の祖:保科正之を養育していたことから、寛政元年(1789)に会津藩主寄進の見性院霊廟三具足(市指定有形文化財)や、会津藩士の有泉勝長木碑(市指定有形文化財)など、会津藩に由来する文化財が納められています。 また、境内に並ぶ庚申塔は、天明3年(1783)と万延元年(1860)に建てられたもので、一カ所に351基もまとまって存在するのは非常に珍しいものです。
見性院とは?
見性院(けんしょういん)は、武田信玄の次女で、武田家重臣の穴山梅雪の正室でした。梅雪の死後、徳川家康の庇護を受け、当地(大牧村)を領地として与えられていたことから、元和8年(1622)に没すると、ここ清泰寺に葬られました。
見性院は、徳川二代将軍の秀忠が侍女に生ませた男子・幸松丸の養育を頼まれ、七歳まで育てました。幸松丸はその後、かつて武田家臣であった信州高遠藩主の保科正光の養子に迎えられ、保科正之と称し、高遠から山形、会津へと移り23万石の大名に出世し、三代将軍家光や四代将軍家綱を補佐して幕政にも参画しています。
正之は養母が没すると、その冥福を祈るため境内に霊廟を建てましたが、のちに倒壊し門扉のみが現在の地に移されました。その後安政5年(1858)に会津松平家(保科家は三代正容の時代に松平の性と三ツ葉葵の紋の使用が許される)が、報恩のために現在の墓を建てました。
また、本堂に木碑が安置されている有泉勝長は会津藩士で、その37回忌にあたる元禄16年(1703)に、娘婿の勝隆が清泰寺に納めたものです。なお、有泉家は、勝長の弟の五兵衛が大牧村に居住し、子孫累代にわたり見性院の墓所に奉仕したといわれています。
周辺地図
開館時間 | 拝観時間:特に時間は決められてないが夜間は除く |
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住所 | さいたま市緑区東浦和5-18-9 |
アクセス | JR「東浦和駅」より徒歩8分 |